代表解体新書
はじめに
人と人、企業と企業にも相性があります。
この代表解体新書は、お客様に対して当事業所がふさわしいかどうかを判断していただくために、当事業所の代表である私の全てをさらけ出しています。
そのため途中からどんどんと余談が含まれ、長文になっています。 お時間が相当ある時によろしければご一読いただければ幸いです。
氏名
濱口 康幸(はまぐち やすゆき)
生年月日(年齢)、星座
1975年(昭和50年)6月21日、ふたご座
血液型
いつもO型に間違えられるA型
出身地
愛媛県の最北端に位置して、しまなみ海道も通っていない離れ小島の生名島(瀬戸内かみじまトリップ)。
バスも信号もコンビニも本屋もラーメン屋も焼き肉屋もマクドナルドもありません。
高校は隣の島へ、なぜか2つの船を乗り継いで通学していました。
出身校
愛媛県の生名小学校(私たちの学年は2クラスで50人いましたが、現在全児童数30数名です)
→ 生名中学校(市町村合併を経て消滅してしまいました)
→ 隣の島の弓削高校(他の高校の分校になってしまう危機が現在も進行中です)
→ 岡山県高梁市にある吉備国際大学(初めて高梁駅に降りたとき、結構都会だと安心しました)
特技
・早起き 朝3:00(特技?)
・プチ断食 (本当に体の調子が良くなりますよ!でもこれも特技?)
趣味
・ダイエット・筋力トレーニング(加圧トレーニングで8kg減量成功経験有!)
・子育て(客観的に見ても日本一可愛い娘と、客観的に見ても日本一男前の息子)
自称、日本一の育メン社労士です!
今の住まい
倉敷市茶屋町のCプラッツチャチャの近く。下津井電鉄跡にできてるサクラのトンネルが本当にきれいですよ。ぜひ春に遊びに来てください。
↓ ここ以降は余談です。(かなり)
結婚を機に茶屋町に引っ越してきてもう7年くらいになります。今では本当に住みやすく、便利な場所で満足していますが、最初は茶屋町に住む予定ではありませんでした。というか最初は嫌でした。
なぜなら、私の職場への通勤時間が長くなってしまうのが嫌だったのです。当時、私は岡山市に在住/勤務し、妻は倉敷市児島に在住/勤務していました。
私と妻の結婚後の住む場所に関しては共通の考えであり、結婚して、いずれは子供もでき、私が主として働くことになるのですから、なるべく岡山に近い所にしよう。なおかつ、妻は、いずれは電車通勤をすることにしてましたので、妻の児島への電車アクセスが良い大元駅(ほとんど岡山駅より)近辺というものでした。
ところが、新居を探さないといけないという時期になると、妻の方の提案で「電車が多く停車する妹尾駅(まだまだ岡山より)近辺が良い」という話になりました。
「まあ、そのくらいならしょうがないかな」と思いつつ、さらに後日話をしていると今度は「早島駅(なんとか岡山より)近辺が良い」さらに、どうせならマリンライナーが全て停まる茶屋町駅近辺が良い」ということで、どっちかと言えば児島に近い茶屋町になってしまいました。
ただ「まあそのうち電車で通ってもらうことになるからな~。マリンライナーは全部停まったが方が、まあ良いよな」と渋々あきらめて、新婚生活をスタートしたんですが、妻が一向に電車通いをする気配がありません。
なんと、今度は「やっぱり車の方が便利が良いから、車で通いたい」ってことになり、「電車が多く止まるからということで、だんだん児島側に近寄ってきたあの話はなんだったんだ~」ということで、まんまとやられてしまいました。(泣)
そんなこんなありましたが、今ではこの茶屋町の街の雰囲気も、地域の方々の人柄もとっても気に入っています。ホントですよ。(笑)
略歴 その1 生誕
1975年愛媛県の最北端に位置して、しまなみ海道は、隣の島を通り抜けていってしまう超ド級の田舎(バスもタクシーもコンビニも本屋もラーメン屋も信号も歩道橋もない)、「郡(市ではない)」で「村(当時は)」で「島(周囲10?q)」の田舎三拍子そろった生名島で長男として生まれる。
幼い頃は今とは違って病弱で、血液が普通よりも少ないとかなんとかで、母親に鳥のレバーをすりおろしたものばかりを食べさせられる(今ではそのせいか好物)
また、気が弱く、いつも同じ歳くらいの女の子に押したらアヒルがカタカタ動くおもちゃを取られて泣いていたらしい。
癖はぬいぐるみの鼻を噛んで引っぱることだったらしく、小学校のころになってそんなことをもう覚えていない私が、まだ残っているぬいぐるみを発見。「なんで、ぬいぐるみの鼻が伸びてきつねみたいになっているの?」と母親に聞くと、「何を言ってるの。あなたが全部噛んで伸ばしたんでしょ!」と一喝。確かにそう言われれば、やってたような気が...。
なんかストレス(女の子におもちゃをとられるとか)があったんでしょうかね(笑)。
略歴 その2 保育園時代
年長クラスの1年間しか通っていないが、担任の先生が優しくて、なおかつ綺麗で、いろいろと丁寧に教えてくれたことをなんとなく覚えている。
例えば家に持って帰るプリントを折る際に私が「なんできちんと折らないといけないの?」と聞くと、先生が「綺麗に折ってあったらおうちの人が開けるときに気持ちいいでしょう」とのこと。
当たり前のことだが妙に納得して、家に帰って母親にプリントを渡すときは「綺麗に折ってるね。って褒めてくれないかな~」といつもジーっと母親の顔を凝視していた。
そうすると本当に「綺麗に折ってるね。」と褒めてもらえたことに驚いて(褒めて欲しそうな顔をしてたからだと思うが)、そして、次の日その先生に「褒めてもらえたよ?」って有頂天になって報告しにいくと、先生が「そうでしょう」とニコニコしていたような覚えがある。(もしかして、ウチの親に事前に伝えてたとか…..いや、まさかね。)
このことが今でも紙を折るときだけでなく、誰かに何かをするときによく思い出されて、相手のして欲しいことをしないと(プリントを綺麗に折らないと)先生に怒られるような気がしてならない(笑)。
他にもいろいろと良い習慣を与えてもらった。
略歴 その3 小学校時代
生名島唯一の生名小学校に入学、その当時は全校児童約400人、私たちの学年は54人と結構多かった(現在は一学年1人もあるらしい)。
ウチの父親も通ってた頃より、もっと前からある古くてアジのある校舎(今は建て替えられたためもう無い)で日々を過ごすのだが、実は小学校1・2年の頃は学校が嫌だった(初カミングアウト。これは親も知らない。たぶん)。
なぜかと言うと、私は小学校1・2年の頃からクラスで一番背が高かったので、体育のとき2人組になって何かをやる際、いつも男女別に、なおかつ、必ず背の低い方から2人ずつ組んでいくので、一番背が高い私がいつも男の中で1人だけあまり、いつも女子と組むことになった。
そして、いつもクラスの男がこう言うんですよ。「男女(おとこおんな)のや・す・子~(←名前が「やすゆき」だから)」と。(これは、ご存知の方もいると思いますし、くだらないんであまり説明はしませんが、30年くらい前にテレビでしてた「トミ―とマツ」という刑事ドラマで、ピンチのときにマツという刑事がトミ―(富夫)という刑事に「男女(おとこおんな)のと・み・子~」と言うんですが、これを少し変えて言うんですよ。)
今思えばくだらなすぎて、この文章を書いてても笑えるんですけど、当時はこれが、嫌で嫌で体育の時間が本当に嫌でした。
そんなとき、ちょうど先生が「学校が好きかどうか」というアンケートをしだして、このときに「嫌い。体育があるから。」と本当に軽い気持ちで書いたら、なんと嫌いと書いたのは私だけでした。
そうしたら、先生が何を思ったか、気を利かしてなのか(なんの?)、みんなの前で、なんで嫌いかの理由を説明させられて、その後、先生が「もう。やすゆきくんをからかうのはやめましょうね」と一言。「これで、一人の生徒を救った」と、ドヤ顔してたかどうかは覚えていませんが、余計に恥ずかしかったことだけは良く覚えています。(いやいや、気を利かすなら、背の高い方から2人組にしてくれればいいだけだったんですけどね(笑))
小学校3年生の頃からはお調子者の性格が前面に出てきて、いつもクラスのみんなとバカ騒ぎをして、ハメを外してみんなを大笑いさせて先生に怒られるというパターンが出来上がっていた。
そんなある意味目立ちたがりの性格もあってかどうか、6年生のときには児童会副会長にも選ばれたりして「ああ全校児童のために自分がしっかりしないとなあ。」と一瞬思ったりも多分してたが、相変わらずハメをはずして先生に怒られるパターンを繰り返していた。
そんな小学校時代であったが5・6年生を受け持ってもらった先生から卒業式のときに贈られたメッセージ「愛される男ハマグやん(←あだ名)。いつもどこかでみんなを笑わせている。中学校に行ってもがんばれ!」これが最高にうれしかった。
自分に都合が良いように解釈しているのかもしれないが、お調子者でもクラスのムードを盛り上げることについては認められたみたいな気がして、うれしくて、卒業式当日は小学生ながら号泣。この先生の仁徳あってかクラスのほとんどの子も泣いてて、「中学生になりたくない。このまま小学校に残りたい。(←ありえませんよね(笑))」って言ってたことをよく覚えている。
略歴 その4 中学校時代
中学は、これまた島唯一の中学校である生名中学校に入ったのだが、実は人生ではじめて挫折を味わうことになった。
それは腰を故障して私が一番力を入れていた駅伝ができなくなったことである。(一時はコルセットが手放せなかった)
なぜ、故障したかといえば、これもお調子者の私らしいといえば私らしいのだが、準備体操とかで腰をねじる時に「ボキッ」って音がする時があるじゃないですか。
この私の腰の音があまりにも「ボキボキボキボキ~」と異常に良い音が鳴るので、みんなが「お~~~。」と驚き、これが快感でいつもみんなのリクエストを受けて鳴らしていた。(バカでしょう)
そうするうちに、どんどんと軟骨が擦り減ってたらしく、気づいた時には駅伝がもうできないくらいに悪化していた(泣)。
このことは明らかに自分のせいなのだが、本当に残念で残念で、駅伝をやめる旨担当の先生に報告に行った時には悔し涙が止まらなかった。
実際に中学時代はこのような挫折ばかりではなく、良いこともたくさんあったのだが、なんとなく「人生は思い通りにならない」「努力したくても体がそれを許さない」というジレンマを初めて思い知らされた時期であった。(自分のせいなんですけどね。)
略歴 その5 高校時代
生名島には高校がなかったため、隣の弓削島にある弓削高へ毎日船を2つも乗り継いで通学していた。
「なんて不便な」と思われるかもしれないが、船通学にも結構良いことがあり、それは何かというと、海に霧が出ると船が出なくなるので学校が休みになり、そんな日は友達の家で「マージャ…。」、、、「勉強」できたことだ(台風ではちょっとやそっとじゃ、船は運航停止にならないんですが、霧が出るとやはり前が見えなくなるので、すぐに止まるんですよね。)
そんな臨時休校が、年間5~10日位はあり、本当にみんなで効果的な勉強ができました(笑)。
高校では一応進学クラス(あくまでも島レベル)に入り、なぜか1年生の1学期とか、2年生の1学期とか、その学年の1学期のテストはやる気が出てクラスでも一桁台になるくらいではあったが(あくまでも島レベル)、それ以外はほとんど勉強することもなく、クラス委員でみんなの模範であるべき立場でありながらが「大学にはいけないかもしれないな~」というくらいのレベルだった。
※「島レベル」とは、どんな大学でも大学に行っただけで「結構頭が良い奴」と言われ、国立大学に行こうものなら「島のヒーロー」になれ、東大・京大・阪大などに行くと「島の伝説として永遠に語り継がれる勇者」というレベルのこと。
そんな「大学にはいけないかもしれないな~」というくらいの私が、結論を先に言えば、島レベルの「結構頭が良い奴」の称号を得ることになるのだが、転機がなんだったかというと、何気なく受けた日本史の模試で学年で3番になったことだ。
このことが私のお調子者魂というか、豚もおだてりゃ木に登るというか、ただ何かスイッチが入って、日本史という大学入試には重要視されていない科目でありながら、それ以降は学校でずっとトップ(あくまでも日本史だけ)の座を譲らず、県でも4番になるくらい日本史にかなり重点をおいて勉強していた。
そして、日本史を最大限活かして受験ができる大学を探し、のちに我が母校となる吉備国際大学が見つかり、受験して、合格し、晴れて島レベルでの「結構頭が良い奴」の称号をなんとか勝ち取ることができたのです。
略歴 その6 大学時代
大学は岡山県高梁市にある吉備国際大学に入り、生まれてはじめて島から離れて一人暮しをはじめた(高梁に着いた初日だけは夜さみしくなって泣きそうになった。でも泣いてないですよ。(笑))。
高梁は一般的にはかなり田舎という印象だということに大学入ってしばらくして気づくのだが、それまでに住んでたところの方が超ド級の田舎であるため、高梁駅に最初に着いたときなんかは「結構都会で良かった~」とシミジミ思った。
「だって信号もあるし、ラーメン屋もあるし、本屋もあるし、コンビニもあるし、そのコンビニも夜の12:00までやってるし、その他の店も夜の8:00位までやってるし(田舎では6:00には閉まる)」とか本気で言ってて良く友人に笑われていた。
まあしばらくしてからは自らのもちネタとして進んで話してたりしてたのだが....。
大学生活は大きな声では言えないが、特にうちの両親には決して言うことができないが(両親はインターネットはしてないから、ばれないことを信じて)、勉強に力を入れるというよりは、ただただ、部活(なぜかやったこともなかった少林寺拳法部)に行ったり、友人と遊びに行ったり、その費用を稼ぐためのバイトにあけくれていた。
当時はホントになんにも考えてなくて、大学に行かせてもらうことのありがたみもそんなに感じていなかった。
しかし今となっては本当に両親には感謝している。 自分が社会人になって結婚し、子供もできて親になり、将来のことが予測できるようになって気づくのだが、兄弟3人、姉は優秀で学費は高くない学校ではあったが一人暮らしであったし、あとの私と弟のアンポンタン2人は学費の高い学校で一人暮し、相当金銭的に負担をかけてたに違いない。
ただ、勉強は一切しなかったが、大学に行かせてもらったおかげで、いろいろなバイトをして仕事というものをかじることができた。
体育会系の少林寺拳法部で礼儀や忍耐力(特に凍ってる高梁川に入っての寒稽古は想像を絶した)を身につけれた。
体育部会(体育会系の生徒会のようなもの)の副会長もさせてもらえた(これが結果的に就職活動で本当にいいネタになった(笑))。
たくさんのかけがえのない友人にも巡り会うことができた。
本当に両親には感謝している。
略歴 その7 社会人時代(前半)
良し悪しが有るかとは思うが、20代の時は複数の会社で、いろいろと経験をさせてもらった。
住宅メーカーでの営業や、社会保険労務士事務所、一般企業での人事職とさまざまだ。ただその中でもやはり社会保険労務士事務所での経験が一番印象に残っている。
今では私の仕事に対する考え方というか取り組み方の基盤になっていることは間違いない。
その社労士事務所で働くことになった経緯は、住宅メーカーを辞め、社労士の資格を取るために学校にいってるときの講師の先生がその社労士事務所の所長だったのだが、受験勉強を始めた頃は正直、社労士事務所に勤める気は全然なく、一般企業に就職するつもりだった。
しかし、その先生の講義の説明の一環で話してくれた実務のこと(この話を聞いたら本当にモチベーションが上がった)や、一度ゆっくり話しをする機会をとっていただいたときに聞かせてもらった社労士の仕事のやりがいなどに心をうたれて、試験は受けたが合格発表はまだ(というか自己採点では合格ラインギリギリだった。というよりも危なかった)という状態ではあったが、頼み込んで就職させてもらい、数ヶ月後、合格とわかったときには本当に人生の中で1番嬉しかった。(もう無理だろうなと思ってただけに)
社労士の仕事は本当にやりがいがあった。もともと人と話すことが好きなので、いろいろな顧問先に伺わせてもらって経営者の方達と話しをするのは本当に楽しくて勉強にもなった。
しかし、社労士業務も簡単なことばかりではないので、よく失敗もしたし、考えが及ばずに顧客にも事務所にも迷惑もかけた。
ただ、それらのことも自分本位の言い方になってしまうが、今思えば全てがいい学びであり、自分自身の成長の糧になっている。
結局、3年半くらいの在籍期間であったが、今回の私の開業もこの事務所での経験がなかったら絶対になかったと断言できる。
なおかつ、その先生の「命をかけて顧問先を守る(←誇張一切なし)」というマインドは、自らが経営者となった今、自らがこうありたい姿であると確信している。本当に感謝の念にたえない。
略歴 その8 社会人時代(後半)
「次は自分の最後の勤め先にしよう」そう思い、工作機械メーカーに人事・総務職として就職した。この会社では入社まもないたかだか30歳の私であったにもかかわらず、いろいろな仕事をまかせてもらった。
例えば「就業規則の全体的な見直し」「職務分掌・権限制度の導入」「コンプライアンス委員会の設立・運営」「株主総会の運営」「大学生・高校生の採用活動の実施」「入社式・新人教育の実施」「助成金の申請」などなど、全般的にいえば前任者から引き継ぐというようなかたちの仕事はほとんどなく、自らがゼロから作り上げていく充実感をヒシヒシと感じていた。上画像は大学生対象とした合同会社説明会のときにたまたまテレビに映った映像です。
さらに輪をかけて良かったのが、この会社は300人以上の社員ほぼ全員といっても言い過ぎではないくらい社長からベテラン社員まで本当にフレンドリーな人たちばかりで、私の仕事柄、他部署と関わらせていただくことが結構多かったので、そういった面からいっても本当に働きやすく満足した日々を過ごしていた。
そのくらい、この会社に満足していた私が、なぜ社労士として独立する決意をしたかというと、きっかけはリーマンショックに端を発して起こった極度の不景気によって、私が勤めていた会社も大打撃を受け、休業等を余儀なくされることになったのだが、このことにより、自分の時間が増え、自分の将来について深く見つめなおしはじめたのが、そもそも始まりだ。(ただこのときも独立は考えていなかった。)
そして、数カ月間自分を見つめなおすことばかりしてたのだが、その時でた大まかな結論は、いずれにしても「スキルアップをしないといけない。」「人間力を高めないといけない。」ということであったので、仕事が終わった平日の夜や休日に、岡山だけでなく、大阪、東京で行われている研修や地域のイベントに頻繁に参加するようになった。
そうすると、そういう場にはオーラが出まくりの経営者や、やる気に満ち溢れたサラリーマン、地域を少しでもよくしたい住民がたくさんいて、その人たちと仲良くなり、いろいろなお話を聞かせてもらっているうちに「もっともっと自分を成長させたい」「岡山が元気になるようなことを何かしたい」「自分がいつ死んでも後悔しない生き方がしたい」と強く思うようになったのです。
そして、最終的に出た結論が「社会保険労務士として独立し、死にものぐるいでがんばって、岡山の中小企業を元気にする。」だったのです。
もちろん、工作機械もこの世にはなくてはならないものですし、全世界の人々に幸せをもたらしています。
ただ私はどうしても“事務方としてではなく、お客様と現場で直に触れ合い”“お客様と一緒に泣いたり笑ったり”そして“自分が思うやり方で、命をかけれるくらい、いつ死んでも後悔しないぐらいの仕事がしたい”と思うようになり、辞めるという結論にいたったのです。
本当にこの会社には迷惑をかけることになりました。にもかかわらず社長をはじめとして、直属の上司、同じ課員、その他の社員の全ての人が「会社としては残念だが個人としては応援している」「どんな会社を紹介して欲しい」とか、この文章書いてても涙が出そうになる位の言葉をかけていただいて、本当に自分ががんばる理由をたくさんもらいました。
というようなことで、私は応援してくれる人たちのため、家族のため、そして、この岡山のために絶対に、必ず、何がなんでも成功しないといけない使命を引っさげて、社会保険労務士として開業するにいたったのです。